悠揚迫らぬ風格を備えた真の空手家・武道家、中村忠師範

 

1987年の或る日、きんどーさんからアパートに電話が来た。何でも高校の後輩で日大に入った人が極真空手(城南支部)の傍ら大学の空手部にも入らざるを得なくなり、なんやかやがあった様で、その人が空手部の先輩からきんどーさんとやらを呼び出せと命じられたらしい。

私は(ヤベッ! きんどーさんなら四、五人はコロしちまうぞ。イザと言う時には止めなきゃ)と焦り、きんどーさんに同道した次第。

 

ところが日大の空手部の人たちは芦原英幸に散々、ぶっ飛ばされた経験をもつ私たちに「芦原英幸の強さ」を聞きたかった模様。拍子抜けした私たち。仕方なく私たちは頭をかきながら「芦原英幸の強さ」を語った。場所は同大学の空手道場。きんどーさんも私も『極真会』の刺繍が入った道着姿。

 

その時だった。一人の人物が道場内に入ってきて道場を見渡していた。日大空手部の人たちは「誰だ?」とか言っていたが、私ときんどーさんは驚きながら

「な、中村忠師範」と言った。

 

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中村忠極真空手七段。駒場東邦高校の一期生だが高校入学と同時に大山道場に入門したとされ、日大進学後に黒帯を允許される。1964年、極真会館総本部ビル落成前に師範代の黒崎健時、藤平昭雄と共にタイに行き、タイの国技であるムエタイはおろかキック・ボクシングの「キ」の字も無かった(知らなかった)その時代にムエタイと闘い、黒崎は敗れたものの中村忠と藤平がKO勝ちを収め、2-1で空手の面目を保たせた。極真会館落成後には黒崎に次いで本部二代目師範代を務める。現在の極真空手にも受け継がれている基本稽古、移動稽古を指導員であった芦原英幸と共に完成させたともされる(諸説あり)。また芦原英幸中村忠のことをたいそう慕っていた。この時期に「二代目館長は中村忠」と言われるほどに(大山倍達もそう願っていた)空手の強さは本物で、頭脳明晰であり、人望も厚かった。1966年にニューヨーク支部長の任につき渡米。遅れてニューヨークにやってきた大山茂と共に極真空手の普及に尽力。中村の道場からはチャールズ・マーチン、ウイリアム・オリバーと言った強豪を輩出。しかし、1975年第一回世界大会終了後に大山との間に軋轢が入り、翌年、極真会を脱会(号泣)。※(注) その後、自らの流派、誠道塾を興しアメリカを中心に活動。

 

大山倍達は第一回世界大会を成功させた時点で中村忠に二代目として館長職を譲るべきであった。そうしたら極真会館は未来永劫不滅だった。

 

こうしたことを私が日大空手部員たちに説明、早口で汗をかきながら。呆気にとられている日大空手部員たち。そもそも、この空手部員たち極真空手の強さに懐疑的だったのだが。きんどーさんの高校の後輩は黄帯(6級)だからやむを得ないが。

 

そうしたら中村忠

「おや、君たち二人は極真空手か。それじゃあ私も道着に着替えてこよう。やろうじゃないか(闘うの意)」と言った。「お、押忍!」と胸の前で十字を切り、返事をしながら礼をした私たち。きんどーさんが私の耳元で小声で囁いた。

(芦原師範が「(中村師範について)押されていた記憶しかないけん」って言っていたよな)

私は大汗をかきながら頷いた。多分、私の顔からは血の気が引いていたはずだ。

 

そして空手着に着替えてきた中村忠師範。先鋒は私。ジャンケンできんどーさんに負けた。

 

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私は弊ブログで度々「オーラ」という単語を用いるが、本当は余り使いたくない単語だ。だが、使わざるを得ないのだ。芦原英幸からは抜き身の日本刀の様なオーラを感じたが、中村忠からは穏やかだが一撃必殺のオーラ(訳、わかんねーな/笑)が出ていた。

 

(ともかく中村師範の主武器は右の正拳突きだ。間合いを殺して中間間合いでの勝負。後ろの蹴り上げだ。一か八か)

と考えたことはよく覚えている。そして私が一瞬に間合いをつめたことも記憶している。そうしたら、その中間間合いでハンマーで鳩尾を強く打たれた気がし、呼吸ができなくなり、私は床の上に両手と両膝をついた。私は、もう呼吸ができないながらも鈍くなった思考を働かせた。

(何故? 正拳突き? いや、この間合いじゃ鉤突き(ボクシングで言うフック)だが違う。何だ? 何が生じた?)

何とか呼吸ができる様になった私は十字を切りながら「参りました、押忍」と小声で言い、礼をした。きんどーさんがいるもとへ引き返した。

「オメー、分かってねーな。オメーが間合いをつめた瞬間、中村師範、左の肘打ちを放ったんだ。完全に読まれてたんだよ」と、きんどーさんが小声で言った。

(左の肘打ち? そんなの見えなかったぞ)と私は思った。それから(手加減されてアレかよ)と私は腰を下ろした。

 

だが、きんどーさんと相対した中村師範からは少々オーラが強くなった。それは当然だ。きんどーさんは私なんぞより遙かに強いのだから。

 

きんどーさんは角度を絞った右の下段廻し蹴りを放った。その刹那、中村師範が間合いをつめ、右の正拳突きをきんどーさんの鳩尾に放ったのだが、その突きが見えなかった。正拳突きだと判ったのは引き手を戻し終えたところで。芦原英幸の右の正拳突き(芦原はパンチと呼んだが)も速かったが、それ以上だった。手加減してコレだ。

きんどーさんも私同様に床に両手、両膝をついて呼吸に苦しんでいた。

 

 

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私たちが帰途につく時に『空手バカ一代』大ヒットの為にカネの亡者になってしまった大山倍達総裁の悪口を言い合ったことは言うまでもない。

 

「極真も惜しい奴を手放したもんだねェ。忠さえいれば極真は何処へ行っても安泰なのに」~by・黒崎健時

 

 

 

 

 

神さん・あの左の肘打ち、全く見えなかった・ラブ。