日本のロックの黎明期~熱き時代

 

今、日本のロック・バンドが5大ドームツアーだとか嵐が5大ドームツアーだとか、いろいろあるようだが、以下の一人と二つのバンドの活躍がなくば、それは未だに不可能だったと言って良い。この一人と二つのバンドがシーンを切り拓いてきたからだ。

日本のロックの黎明期に活躍した彼等。彼等がいたからこそ、今の日本のロックがある。

 

ただ、日本のロックの黎明期というと、頭脳警察村八分はっぴいえんどサディスティック・ミカ・バンド等々まで遡るのが普通だが、残念ながら彼等はシーンを切り拓くことが出来なかった。そうしたことから、以下の一人と二つのバンドをもってして黎明期としても良いだろう(乱暴かな?)。

 

先ず、永ちゃんこと矢沢永吉

 

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ご承知の様に矢沢はキャロルで一世風靡をし、人気を博したのだが、それでも或る一定規模での人気でしかなかった。矢沢が快進撃をし、シーンを切り拓いていくのはソロになってから。

1977年に矢沢は初の日本人単独日本武道館ライブに挑んだのだが、それを成すまでマスコミに叩かれた、叩かれた。「不可能」と。もうボロクソ。

だが矢沢がそれを見事に成し遂げてしまったものだから、偉い。

そして、翌、1978年に矢沢は日本人単独スタジアム(後楽園球場)ライブにチャレンジ。また、マスコミが叩いた、叩いた。「不可能」と。もう滅茶苦茶に。

しかし、矢沢はそれを見事に成し遂げてしまったものだから、またまた偉い。

この様に、日本ではロックが市民権を得ていなかったのだ。

その後楽園球場でのライブから大ヒット曲『時間よ止まれ』。

 

 

イカしてるね、永ちゃん。サイコウ。

そして矢沢は全国をツアーで駆けめぐった。だが、今では信じられないだろうが、当時、全国のホールでは「フォークのコンサートなら会場の貸し出しOKだが、ロックはダメ。ロックは不良のものだから」と言う理由で、会場使用禁止とも闘った。

だが、永ちゃんはBIGでメジャーな存在となり、今ではカッコ良く年を取った。

『矢沢の2秒』という言葉があるが、それは「お前がどんなにいい大学を出て、いい会社に勤めていても、お前が生涯かけて稼げるカネは矢沢の2秒」という意味だが、これを言って様になる、また許される芸能人は永ちゃんだけ。他の芸能人が言ったら総スカン。まさにカリスマ

また、自分のことを「俺」ではなく「矢沢」と姓を用いたのも永ちゃんが最初。これも永ちゃんが言うからドンギマリな訳で、他の芸能人・著名人が言っても様にならない。まさにカリスマ。あ、空手家の天才・芦原英幸がいたか。彼もカリスマで例外だな。

在日コリアンとして生まれ、差別もされ、幼少期~少年期に親戚中をたらい回しにされ、極貧だった永ちゃんビートルズと出会い、それが永ちゃんの運命を変え、中卒で上京しサクセスを掴んだ。まさに「成り上がり」

 

ともかく、永ちゃんこそが日本のロックの嚆矢と言える。

 

次に、甲斐バンド

 

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当初は一応ヒットした『裏切りの街角』に代表されるように、しみったれたフォーク・ロックをしており、男の女々しさを歌っていた甲斐バンド。それがアルバム『誘惑』で変わり、1979年1月に『HERO~ヒーローになる時、それは今』で大ブレイク。

まァ、この後の甲斐よしひろのツッパリとイキガリ。何が「俺はテレビには出ない」だ。老醜を晒してフジテレビ『バイキング』のコメンテーターをしているのは誰だ。

それはともかく、甲斐バンド、『裏切りの街角』の後でテレビを拒否しライブ活動中心にしたことは正解で、ライブ・バンドとしての地力を身につけた。そこで『HERO』の大ヒット。甲斐バンドのライブでは客が席を立って盛り上がっても良かったのだ。今、我々がロックのライブで当たり前にしていることを、全国を回りながら整備してきたのが甲斐バンドの功績。

あと甲斐バンドはツアーの締め括りを毎回、日本武道館二日間にして、また箱根ライブ、花園ラグビー場ライブ、新宿副都心(現・東京都庁地)ライブ、両国国技館ライブ、黒澤フィルムスタジオ・ライブと誰もやったことがない場所でのライブを敢行し、シーンを切り拓いてきた。

また、ツアーの観客動員数が物凄く、永ちゃんを上回り、後のRCサクセションをも寄せ付けなかった。自分たちで自分たちの動員数を書き換えてきた。

ただ、思うことがある。それは1979年2月に『HERO』の大ヒットで、TBS「ザ・ベストテン」に一回だけ出た時のこと。甲斐バンドがTBSのスタジオに出たのではなく、NHKのスタジオ(本当は別のスタジオとされている)からTBSへの生中継と甲斐がDJを務めていたNHKサウンド・ストリート」木曜日のライブ放送を兼ねての出演だったのだが、その時、甲斐よしひろがいわゆる『水割り事件』を起こしたこと。水割りで甲斐が少々酔っ払っていたことが『不謹慎だ!』と「ザ・ベストテン」の視聴者からTBSに苦情の電話が殺到し回線がパンクをした。

私は、1977年の夏にレッド・ツェッペリンを聴いてはまり、雑誌で、1975年USツアーのバックステージでジミー・ペイジジャックダニエルズをラッパ飲みしているのを見て、また1977年のUSツアーでジミー・ペイジがステージ上でアルコール瓶を片手に笑顔でいるのを見た。また、キース・リチャーズがステージ上でジャックダニエルズを片手にしているのを見た。それらを見た私は(ロック・ミュージシャンって酒を飲みながらライブをするのか)と思ったのだ。

だから、「ザ・ベストテン」で甲斐よしひろが少々酔っ払っていたのを見ても当然だと思ったのだ。

考えてみてほしい。仮にもロックを売り物にしている奴等がテレビを通して、良い子ちゃんでお茶の間(リビング)にすっぽりと収まっている方がおかしいのではないかと私は思う。今でも思う。1993年だったと思うがX・JAPANが紅白に出て、お茶の間にすっぽり収まっているのを見て、私は吐き気をもよおした。何なんだ? 昨年末の紅白に出た日本のロック・バンドとやらの薄気味悪さは?

 

まァ、それはともかく音声が悪いが、1979年に初のNHKホール、日本のロック・バンド出演となり、『ヤングミュージックショー』でも放映された一節。

 

 

同じくNHK『ヤングミュージックショー』で1980年に放送されたもの。

 

 

同 

 

 

 

そして1980年に大ブレークを果たしたRCサクセション

 

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アルバム『ラプソディー』を聴いた私は天と地がひっくり返るほどに驚いた。矢沢永吉甲斐バンドの歌メロは明らかに日本の歌謡メロなのだが、忌野清志郎の歌メロはモロにソウルやモータウンだったからだ。

天才・忌野清志郎、降臨!

RCサクセションも80年代後半バンド・ブーム以降の連中のようなお行儀の良さが一切なく、テレビ出演しようものならばファンの女の子に清志郎が抱きついて、押し倒し、スカートの中に手を入れるだけでなく、何とパンツの中にまで手を入れる始末(笑)。また、テレビ・カメラに向かって噛んでいたガムを吐きつけ、これまた「不謹慎だ!」の苦情の電話がテレビ局に殺到。私は拍手喝采!(笑)

でも、そんな問題児バンドでありながら、RCはNHKの番組によく出ていた。

 

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これは1983年にNHKの特番で放映されたもの。

 

 

ついでに

 

 

清志郎と言うとRC時代のアルバム『カバーズ』に入っている反・原発ソングの『サマータイム・ブルース』や『ラブ・ミー・テンダー』が話題になったが、東日本大震災原発事故をして「清志郎が生きていたら、どんな曲を書いたか」と言う言葉が飛び交った。清志郎が生きていたら、今の新コロ問題について、どんな曲を書いただろうか。

 

 

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ところで、NHKと言う単語が期せずしていくつも出てきて思ったのだが

 

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昨夜の池田ちゃん(池田伸子アナ)、卓越したアナウンス力と知的美貌ぶりに大いに惹きつけられたのだけれど

 

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一週間前、5/3の池田ちゃん、これ以上ないおめかしをして登場。神々しさがすごかったです。

 

 

 

 

 

 

神さん・清志郎はやはり偉大だ・ラブ。