3.11から9年目に想う(2)

 

今日はNHK、『ごごナマ』でも東日本大震災特集でありがたく思う。

 

でも、こうやって東日本大震災関係番組を見ると、福島県沿岸部は原発事故の為に「分断」されていることを改めて強く思わされた。

 

午前中に記事を書いた後で昼食を食べながら、どうしても南三陸町のことが頭を離れなくなった。

 

 

 

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3.11が生じた後で暫く自宅待機をしていた私は、3月中にその時勤めていたB社の関連会社に三度行き、常務になっていた私の会社の3.11対策方針が難なく通った。4/1になって、やっとガソリンスタンドを始め、医療関係(病院・クリニック等)、スーパーマーケット等々も再オープンし、何とか生活の目処が立った。

 

その上で、役員会、取締役会、経営幹部会をサボらなければ常務などいなくても、会社は動くのだ。それを利用して、4月頭から私は断続的ながら宮城県岩手県福島県の沿岸部に何度も何度も車を飛ばした。

 

私が宮城県南三陸町を訪れたのは4月下旬。GWに入る前だった。

巨大津波で壊滅的打撃を受けた南三陸町

それまでに、私は新聞記事で知り、YouTubeで聴いた『天使の声』で、いても立ってもいられなくなっていた。

 

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南三陸町の防災庁舎を見た私は絶句した。

 

(ここでE・Mさんは『私』を棄て『公』の為に、避難の声を出し続けたのか)

私はショックを受けた。だが、この時の私の感情には衝撃だけでなく、不謹慎であるが感動も生じた。

 

(この軟弱な21世紀にあって、『私』を棄て『公』の為に、最期まで闘った強い女性がいるとは)

 

これが私の感情のなかにあった。

 

私は被災地に行く度に、内陸部で手に入るだけの支援物資を持って避難所を訪れていた。しかし、この南三陸町のいくつもの避難所を訪れる時ほど、心が重いことはなかった。

 

避難所で訊くと、この時点でE・Mさんはまだ見つかっていなかった。

だが、避難者の多くがE・Mさんの言葉に、叫びに、心から感謝し涙していた。

 

もう何年も前になるが、このE・Mさんのことを美談として教科書に載せたことが物議を醸した。何でも、E・Mさんのことが、自衛隊や他のナンカと同様に生徒の気を害させるというのが、その理由だそうだ。

 

 

 

黙りな! 左翼! 日教組

 

 

 

私はE・Mさんの名前を出し、その避難を叫ぶ声を教科書に載せることは反対だ。

せめて、「防災庁舎で避難をさせる為に、最期まで声を上げていた人がいる」とするべきだ。

 

ガダルカナル戦や(無謀な)インパール作戦や東南アジア戦線や沖縄、そして特攻隊で死んでいった人たちは、多くの人たちには無名のまま靖国に祀られている。そうした英霊の人々が礎となり、現在の私たちがある。これは厳然とした事実だ。

 

E・Mさんも、それと同様なのだ。無名でいいのだ。教科書に載せるというのであれば、その事実だけを載せれば良い。

 

四年前に、私が南三陸町で知り合ったおバアちゃんが旅立った。

そのおバアちゃんは何でも枕元に

「Mちゃん、ありがとう」

と記した紙を残していたそうだ。

 

E・Mさんが最期まで避難を呼びかけたお陰で助かった人たちの心のなかで、E・Mさんが生きていれば、それで良い。

 

それで良いのだ。

 

 

 

 

 

 

神さん・それでいいんだよ・ラブ。