何故、極真空手は地上最強から陥落したのか(2)

 

昨日は三瓶啓二について語ったところで終わったが、三瓶啓二についてもう少々。

 

三瓶の対中村誠での戦法と「ルールを利用して」のトーナメントの勝ち上がり方は、昨日記した通りであるが、道場組手における蹴り技を含む多彩さには素晴らしいものがあった。

その三瓶啓二、1980年に続き1981年も決勝で中村誠を下して二連覇を達成。しかし、対中村誠戦をして他流派から『相撲空手』と揶揄され、また大山倍達からも苦言を呈されたのであろう。1982年全日本において、三瓶は過去二年間の空手スタイルをガラリと変え、上段廻し蹴り、後ろ廻し蹴り等々を用い、ここぞと言う時には相手をノックアウト(一本勝ち)した。この三瓶の変貌ぶりには場内の多くの人たちが驚いた。決して華麗とは言えないものの、1980年から全日本に出場をし華麗な蹴り技を武器に上位入賞をしていた松井章圭より、遙かに破壊力を有した蹴り技を駆使した。このことは、大山茂、大山泰彦も認め、絶賛していた。

 

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ただ残念なのはこの大会、中村誠が慢心から遙かに格下の者に足下をすくわれ途中で敗退したこと。決勝で両雄がぶつかった際に、三瓶が中村誠相手にどうした闘いを見せたのか、それはもう誰にも分からない。また、この大会において、三瓶は顔面ガラ空きではなく、しっかり顔面をガードしていた。

 

そして、1983年の第三回全世界大会。三瓶はかなり早い段階で肋骨三本を骨折した。

それでも尚、棄権することなく三瓶は闘い、トーナメントを勝ち上がった。だが、控え室において三瓶は余りの激痛から怪鳥の叫びの様な声を上げていたと言う。

それから決勝で、三瓶は中村誠と対戦。中村は遠慮なしに三瓶の折れた肋骨がある胸を攻撃した。だが、それに怯むことなく三瓶は闘いぬいた。結果は本戦のみで中村誠が優勝した。

1984年のロス五輪の柔道・決勝で山下泰裕の痛めた脚を対戦相手が攻めなかったことを美談として語られているが、それはスポーツだからだ。だが、極真空手武道である。武道の世界ではそんなスポーツマン・シップなどと言う甘い甘い甘い甘っちょろいことは通用しない。相手が脚を痛めていようものならば、その脚を狙って攻撃し、肋骨を折っていようものならば、その胸を攻撃する、これが武道である。

私は、決勝で勝った中村誠に拍手すると同時に、『極真魂』を見せてくれた三瓶啓二に泣きながら拍手をした。

 

こうした武道性『極真魂』が、極真の地上最強を支えた

 

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だが、極真が大会を開いてから輩出した山崎照朝、盧山初雄、添野義二、二宮城光、中村誠の様な超人的な強さが三瓶啓二にあったかと言えば、残念ながら、なかった。しかし、三瓶は、それまでの他のチャンピオン(添野義二は惜しくも優勝を逃したが)、長谷川一幸、三浦美幸、佐藤勝昭、佐藤俊和、東孝よりは格上である。

とは言え、極真空手の全日本・全世界大会は、デスマッチ・トーナメントだ。優勝者は無論、ベスト8勢はもうとんでもなく強い。強すぎるくらいに強い。

 

 

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さて、ここで念頭に置いておきたいことは、上記、極真のトンデモ猛者勢であるが、四国支部長の芦原英幸の一番弟子である二宮城光以外は、皆、池袋の本部の者か本部育ちである。佐藤俊和は秋田支部だが、秋田支部ではより強くなれないことから、本部にまで赴いて稽古をした。

 

ところが、第三回全世界大会選抜を兼ねた、同年(1983年)の全日本大会から山田雅稔率いる都内の城西支部勢が一気に頭角を現してきた。

三瓶の四連覇は阻まれ、中村誠もふるわず。

優勝を大西靖人、準優勝を小笠原和彦と城西支部勢が占めた。私は、強力な下段廻し蹴りを武器にした大西、多彩な脚技(蹴り技)を武器にした小笠原を見て、時代の変化を感じながらも、彼等の師匠である山田雅稔の存在が気になった。

 

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(山田雅稔)

 

山田は、三瓶が初優勝をした1980年全日本において四回戦で三瓶と対戦し、それまでになかった下段廻し蹴り(内太腿に喰らわせるとか)を駆使し、三瓶を苦しめ、試割判定で三瓶に惜しくも敗れたと言う経緯があった。

この山田雅稔、高校は都立最難関の戸山高校卒で、中央大学商学部卒業後に何度かの浪人を経て、公認会計士の国家試験に合格し、公認会計士としての仕事もしていた。

後日譚になるが、私は大学卒業後にA社に就職をし、経理部に配属され、経理の仕事をして、「あっ! 山田雅稔の合理性はここから来ていたのか!」と分かった。山田雅稔は、相当な合理性を持っていた。

その山田雅稔、打倒・三瓶啓二を自分の弟子に託したのだ。

ただ、大西靖人、小笠原和彦まではまだ良かった。

三瓶が試合早々に敗れ、選手引退を決意した1984年全日本において、山田雅稔が育て上げた黒澤浩樹

 

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が、強力無比で、また多彩な下段廻し蹴りを武器に、一本勝ちの山を築き、盧山初雄以来の初出場・初優勝を成し遂げた。多くの者が一本勝ちにこだわり、それを成し遂げた黒澤の登場に歓喜した。ところが黒澤は1980年・1981年の三瓶同様に顔面ガラ空きで、また三瓶以上に人体の急所である正中線をノーガードで闘っていた。

私は、東京都体育館を後にしながら思った。

 

(山田雅稔は、三瓶以上に露骨に顔面なしの極真ルールを利用しやがった。それに黒澤は身長174センチなのに体重が85キロ。これは過剰なまでのウエイト・トレーニングの産物だ。それを証明するのが、正中線のあの異常なまでの打たれ強さだ)と。

 

そして翌1985年の全日本では、本部の松井章圭が決勝で辛くも判定で黒澤浩樹をやぶったのだが、相も変わらず黒澤は顔面ガラ空きで人体の急所である正中線もノーガードで、下段廻し蹴りのみを主武器に闘った。この大会で、同じ城西支部の増田章が一気に台頭したのだが、増田も黒澤同様だった。

そして、露骨なまでに「顔面なし」ルールを最大限に利用し、極真ルールの中でしか強くない城西支部の時代に突入し、城南支部が後に続き、後にほぼ全国的にそれが広まる。

 

私は1985年に大学生になり上京し、極真空手を再度やりたい気持ちが強かったその春に城西支部を見学し、稽古・練習の話も聞いた。すると案の定、ウエイト・トレーニング至上主義で、皆が皆、極真ルールの中だけでの闘いの練習ばかりだった。私が

「顔面有りの為に、ボクシング・ジムにも通いたいんですが」と水を向けると、その人は

「そんなの要らないんじゃない。だって、極真に顔面殴打なんてないんだから」と言った。その人は1989年に準優勝し、1992年に優勝した田村悦宏であった。

 

私は目の前が真っ暗な思いで帰途に着き、翌日に城南支部に赴いた。私は驚いた。まるで城南支部が一体となって、城西に追いつき・追い越せ状態だったからだ。同じ方法で。

 

私には池袋の本部に再入門すると言う選択肢はなかった。理由は後述する。

 

結果として私は極真空手への道を潔く諦め、勉強っ子の道を選び、極真空手を見るだけにした。

 

それで話を戻し、1985年の全日本を見た訳だが

(何か、黒澤浩樹の下段廻し蹴り、種類は豊富であるにしても昨年と変わらねーな。そりゃ、あそこまでウエイト・トレーニングで鍛えまくった身体から繰り出す下段廻し蹴りには、とんでもない破壊力がある。でも、そんなの何れ攻略される。もっと技のバリエーションを増やさねーとマズイぞ)と思った。

(もう、極真ルールを利用しての下段廻し蹴りばかりの時代になっちまうんじゃねーのか? 何で山田雅稔って、あそこまで合理主義なんだ? 何であそこまでキレイに割り切れるんだ?)とも思った。

 

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(過剰なまでのウエイト・トレーニングは却って身体を破壊してしまう。そりゃ、若い内にいっときは花開いても、長い目で見れば、年を取って身体にガタが来て、そこに過剰なウエイト・トレーニングの副作用まで生じようものならば、人生における敗者だぞ)とさえ思った。

 

黒澤浩樹は2017年の春に54歳の若さで、突然死の様な状態で他界したが、黒澤は最期までウエイト・トレーニングに固執していたようだ。私にはウエイト・トレーニングの負の作用が現れて、黒澤を死に追い込んだとしか思えない。

 

大山泰彦

 

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最低限のウエイト・トレーニングは良しとしながらも、ウエイト・トレーニングを目的化することを否定していた。

 

ここからは纏めて書くが、私の予想はほぼ的中し、極真ルールを利用しての下段廻し蹴り大会・正中線を打たれての我慢比べ大会となり、下段廻し蹴りでの一本勝ちも奪えず、判定勝ちばかりになった。これをして、今、他流派の連中から『腹突き空手ダンス』と批判されるようになった。

こうした不細工で醜い闘いが、大分裂を起こした今日まで続いている。

 

顔面ガラ空きの弊害について述べておくと、1986年全日本で黒澤浩樹は遙かに格下の相手に、飛び二段蹴り風の膝蹴りを顎に喰らい、早々に敗退。また、黒澤、冬の時代には、やはり遙かに格下の相手に上段廻し蹴りを喰らい、早々に敗退。

 

なるほど、この時期に極真空手の下段廻し蹴りの種類はやたらと豊富になった。だが、これは、誰もが顔面殴打を意識しなくなったが故に生まれたものだ。

 

話は少々飛んでしまうが、極真大分裂後に、ブラジルの世界チャンピオン、フランシスコ・フィリオK-1に参戦したが、私は極真ルールの中でしか強くないフィリオを相手にしていなかった。格闘技マスコミは「フィリオ、下段廻し蹴りで敵を粉砕」することを心待ちにしていたようだが

 

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フィリオは哀れなほどに相手の顔面パンチを恐れる有様で、結果、KOされ、カエルをひっくり返したように、無様にリングで伸びてしまった。

 

また黒澤浩樹であるが、正道会館角田信朗と極真ルールで闘うと勝つのだが、K-1ルール(キック・ボクシング)で闘うと顔面パンチを喰らってKOされてしまったのだ。

 

これらは修行の早い段階から顔面有りの組手を行わなかったからだ。一角の選手に成長してからでは、顔面有り、もう遅いのである。身体が顔面なしに馴染んでしまっているが故。

 

 

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以上のことから分かるものと思うが、極真空手を地上最強から陥落させたのは山田雅稔なのだ。

 

極真ルールの中でしか強くない極真空手をつくり上げてしまい、『腹突き空手ダンス』に終始する極真空手をつくり上げたのは、山田雅稔なのだ。

 

だが、仮にも『極真』を名乗る者どもが、こんなふがいない様でいることを良しとするはずもなく、極真の原点回帰を起こした人物がいる。

 

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盧山初雄である。

 

何でもありの大山道場に入門をし、若き日に短期間だったものの、キック・ボクサーとしてリングに立ったことがあり、下段廻し蹴りを得意にしながらもそればかりに頼らず、技が豊富で、しかもキレた、盧山初雄

極真館を興し、顔面ありを模索している。

今はどうか知らないが、かなり前に、顔面ありをルールに加え、試合化したことがある。結果は「キック・ボクサーが何人も出場しようものならば、それらキック・ボクサーが優勝から上位を独占する」と言うものだったらしいが、それは仕方がない。走り出して間もなく、しかも顔面ありをルールに加えて試合化するなど、今の時代にあって容易ではない。時が、私が極真空手に身を投じていた1980~1983年なら分かる。いや、このド田舎だったから、あの荒っぽい荒っぽい空手が道場組手で健在だったのかも知れない。ただ、時代が変われば人も変わるものの、盧山師範には頑張って頂き、長い目で『極真最強』を取り戻してほしい。

 

 

 

 

(この稿、続くかも知れないし、終わりかも知れない、どうしよう)

 

 

 

 

 

神さん・俺があれほど愛した極真空手を貶めちゃったよ~・ラブ。