日本の企業は従業員をナメている!

と、言うタイトルで始まりましたが、私がサラリーマンをやめた顛末を記します。これが音楽ネタに直結すると思います(多分)。

 

私がブログの最初に記した様に、1990年代とは、「仕事をできる人間は、死ぬ直前まで使え!」、と言う本当に荒っぽい時代でした。不幸にも過労死をされたり、過労自殺をされた方々が多数いたのですが、当時はマスコミがそうした報道をするだけで、何の対策も採られませんでした。

 

私はとんでもない所定外労働時間をこなし(もちろん、サビ残)て頑張ったのですが、私は過重労働からうつ病になりました。

そして、私はその会社に辞表を出しました。

当時は、うつ病に対する社会的偏見が根強く、公的機関も何の対策も採らなかったことから、私は自然発生的に「自主退職」を迫られました。

私は私で、(もう、あんな職場にいたくない!)、と言う気持ちから、割とさっぱりしていました。

 

それから暫く私は心療内科クリニック通いをし、薬を服用し、安静加療をしていました。

 

されど、私の両親、特に母に、うつ病に対する理解がなかったことから、私は病状が和らいだ頃を見計らい、アルバイトを見つけて、暫く、バイト生活をしました。

まさか、昭和一桁生まれの人間を親にもった以上、ニート生活なんて許されませんし、人間、生きている以上、生活にお金が必要なことからバイト生活は当然、と言う意識でした。

 

そして、その後、私は新たな会社に就職をしました。再就職をした時期がラッキーでした。その後に、派遣労働者を中心とした非正規雇用労働者の採用が全国規模で展開されたのですから。

ですが、私は前職が製造業の経理であったことから、再就職先も製造業で、職務は経理。

その頃は、『ワーク・ライフ・バランス』という言葉があり、90年代の荒っぽい使われ方はしませんでした。

 

それから一応、私の人生は順調に見受けられましたが、父の死後、母の様子がおかしくなってきたのです。

そして、2年くらいが経った頃に、私は、母が認知症になったことを自覚しました。

 

その母は、(認知症、いよいよヤバイぞ)、と私が思った時に、脳内出血で倒れました。幸い、病状は軽かったのですが、認知症が勢い進行しました。

 

私は、職場の課長に、介護休職制度の利用をお願いしたのですが、「アカン」、の一点張り。業を煮やした私は、またもや会社に辞表を出しました。

 

そして、私は母の介護生活へと入りました。

この後のことは割愛しますが、母は無事にグループ・ホームに入居にすることができ、穏やかな老後を過ごしています。

 

以上が私のサラリーマン経験ですが、「日本の企業は従業員をナメている!」、と声高に訴えさせて頂きます。